「禁煙」に類する言葉で「卒煙」という言葉があります。
禁煙は「タバコをやめること」、卒煙は「タバコから卒業すること」をそれぞれ意味しますが、この2つには表面上感じられる以上の違いがあります。
それは、端的に表現するなら「禁煙には終わり(ゴール)がないが、卒煙には終わり(ゴール)がある」ということです。
禁煙と卒煙
禁煙とは「タバコをやめること」であり、それなら「うまく禁煙できた・禁煙できている」とは、「タバコをやめている状態は継続すること」です。
しかしそれならば、その継続が途絶えた時点で、何十年継続した禁煙だろうと最終的には失敗している、ということになります。
極端な例として、10何年も禁煙をしていたのにたった1本のタバコを吸ってしまい、それ以来以前と同じように吸う喫煙者に逆戻りしてしまった、という禁煙失敗の体験談を聞くことがあります。その例が物語っているのは、禁煙が成功したかどうかはその人が死ぬまで分からない、ということです。
禁煙の苦しさもここにあります。禁煙は死ぬまでやめることができません。一たび禁煙を始めたなら、その人は死ぬまでタバコ・喫煙の誘惑と戦い続けなければなりません。
しかし「卒煙」は違います。卒煙は禁煙のように「タバコをやめている状態を継続すること」ではなく、「タバコが必要なくなること」を意味しています。だから一たび卒煙したなら、その時以降は喫煙への誘惑と戦うことからも卒業することができます。
そして本当の意味での「禁煙の成功」とは、何年・何十年という禁煙継続の年数によるのではなく、卒煙することであり、「私にはもうタバコが必要なくなった」と実感することだと言えます。
「タバコが必要なくなった」と感じる
つい最近、私は「禁煙ではなく卒煙できた」あるいは「禁煙から卒煙へ移行できた」と実感することができたので、それについて書いてみます。
以前書いた記事から1週間くらい経ってからのこと、今日からさかのぼって数えると4、5日前のことです。

私は夜の散歩をしていて、煙草の自販機の前を通りかかりました。
禁煙を始めた多くの人がそうであるように、私もいつもは「タバコ吸いたいな」「美味しそうだな」と思いながら眺めます。もちろんいつも我慢して買いませんが、必ずといっていいほど何らかの誘惑を感じます。
ところがその日は違いました。
私はタバコの自販機をいつになく無感情に眺めている自分に気付きました。
その時、私は「もう自分にはタバコは必要ない」と感じました。
本当に何気ない瞬間でしたが、これが私の「卒煙体験」です。
なぜ卒煙できたのか?
私は最初、自分がなぜ卒煙できたのか分かりませんでした。例えば禁煙外来に行く、禁煙の補助薬を使うというような、今までと大きく違うようなことは特にしていなかったからです。
しかし私は、つい1週間ほど前に禁煙に挫折し、また禁煙を再開した時に考えたことに思い至ります。その時私は「タバコは自分の問題を解決してくれない」と思い、喫煙への欲求を退けることができました。
この時、そのことによって私がタバコについてそれまで抱いていたイメージ・思い込みのようなものが根本的に変化したのではないか、というのが私の現時点の仮説です。
具体的には、今まであった「タバコが自分の問題を解決してくれる」「タバコが自分を助けてくれる」という思い込みが破壊されたのではないかと思います。この思い込みは「非言語的な信念」と言い換えてもいいです。
あるいは逆に「タバコは自分の問題を解決してくれない」「タバコは私を助けてくれない」という信念が形成された、と言ってもいいのかもしれません。
禁煙成功のためのヒント
あなたがこのブログを読んでいるということは、(身内の誰かにタバコをやめてほしい人だという可能性もありますが)あなたは喫煙者で、なおかつタバコをやめたがっている人なのかもしれません。
もしタバコをやめたいのにやめられないのなら、「こんなにタバコをやめたいのにやめられないなんて、どんなタバコに関する思い込みが自分を喫煙に縛り付けているんだろう?」ということを考えてみるのも一つの手かもしれません。